職場でドレスコードの話になった。「服装にはルールがある」と。
原則シャツにスーツで、ポロシャツなどのカジュアルな服装はNGと。
まぁわかる。でもふと思った。
それを言うなら、ヨレヨレのスーツにフケが落ちてる人はドレスコード的にはセーフなんですか?
ドレスコードの目的が「信頼感」や「清潔感」のある服装だとすると、きれいめカジュアルで清潔感のある人の方が、よっぽど「ドレスコードの目的」を達成してないか?
スーツを着ることが目的となっており、ルールの本質を見失っているのではないか。
ルールの形式を守ることと、ルールの目的を果たすこと。この2つは似ているようで全然違う。
2000年前に同じことを言った人
実はこれ、2000年前にイエス・キリストがまったく同じ指摘をしている。
当時のユダヤ教には「安息日に働いてはならない」というルールがあった。で、安息日に病人がいた。イエスは治した。宗教指導者たちは怒った。「ルール違反だ」と。
イエスの返答がこれだ。
「人のためにルールがあるのであって、ルールのために人がいるのではない。」
ルールが人を救うためにあるなら、目の前の病人を放置することこそがルール違反だろう、と。
じゃあ、ルールを変えればいいのか
職場のドレスコードに関しては、本質がずれている状況なので、ルールの変更が好ましい。簡単にはいかなかったが、あの手この手で担当部署と調整した結果、ルールは変わり、ポロシャツ等のカジュアルな服装もOKになった。
ルールは変わっても人は変わらない
職場でカジュアルな服装がOKになっても、よれよれのスーツの人はまだよれよれのスーツを着ている。ルール的には問題ないからだ。
なぜ変わらないのか——行動の判断基準は3層構造になっている
この経験を通して、自分なりに整理がついた。行動の判断基準には3つの層がある。
- 第1層:ルール
- 法律や規則。破れば罰がある。だから守る。ここは損得の話。
- 第2層:モラル、マナー
- 明文化されてない。罰もない。でも破ると信頼度が下がる。「ルール的には問題ない」を免罪符にする人は、だいたいここが欠けている。
- 第3層:自分の心
- 引っかかるか、引っかからないか。誰にも見えないけど、一番正直なフィルター。
外側から内側に行くほど、自分で考える力が必要。ルールは書いてある。モラルは状況を読む必要がある。自分の心は、誰も教えてくれない。
よれよれのスーツの人は、第1層はクリアしている。でも第2層と第3層が機能していない。だからルールをいくら変えても変わらない。問題はルールではなく、その人自身のフィルターの話だからだ。
「ルール的に問題ない」は信頼を下げる
自転車の逆走やイヤホン運転。最近ルールが厳しくなったけど、それでもやる人はいる。あれは3層全部アウト。ルール違反で、他人を危険にさらしていて、自分の心にも引っかからなくなっている。
一方で、ドレスコードのように形骸化したルールもある。本質を見失って形式だけ残っているもの。
大事なのは「このルールは何を守ろうとしているのか」を考えることだ。本質のあるルールには素直に従えばいい。自分の判断より、蓄積された知見の方が信頼できる場面は多い。でも本質を見失ったルールには、疑問を持っていい。
ただし、自分の正しさに閉じない
ここまで考えて、もう一つ気づいたことがある。
自分と違う行動をしている人を見て「物差しがない人だ」と切り捨てるのは簡単だ。でも、その人にはその人なりの考えがあるかもしれない。自分には理解できないだけで。
「理解できない」と「間違っている」は違う。
イエスが当時の社会で排除されていた人たちと食卓を囲んだのも、相手にも事情があるという前提で向き合ったからだ。
まとめ
本質を考えて行動する。でも自分の正しさに閉じない。
2000年前のイエスの言葉が、職場のドレスコードの話にそのまま刺さる。ルールと本質の関係は、時代が変わっても変わらないらしい。