「~すべき」「~するべき」。
この言葉に、ずっと違和感がある。毎日のように耳に入るし、目にもする。ニュース、SNS、会議、アンケート。どこにでもいる。もはや市民権を得ている。でも、ずっと引っかかっている。
今日はその違和感について、ちゃんと言葉にしてみたい。
ラーメンの話をさせてほしい
たとえば誰かに「あのラーメン食べるべき」と言われたとする。
別に食べんでもよくないか?というか、やかましいなと感じる。ちなみに私は性格が悪い。
おいしいのはわかる。おすすめしたい気持ちもわかる。でも「食べるべき」と言われると、なんだか義務を課されたような気持ちになる。食べることが唯一の正解で、食べなかったら間違いみたいな空気になる。
これが「おいしいから食べたほうがいいと思うよ」だったらどうか。
すーっと水のように入ってくる。「じゃあ今度行ってみようかな」と思える。言ってることは同じなのに、受け取る側の自由度がまるで違う。
「べき」は相手の選択肢を奪う。「思う」は選択肢を渡す。この差は大きい。
shouldさん、日本に来てから変わったよね
ひとつ、気になっていることがある。英語の "should" の話だ。
"You should try this ramen."
これ、英語のニュアンスとしてはかなり軽い。「食べてみなよ」くらいの温度感。友達同士の気軽なおすすめ。
なのにこれを日本語に訳すと「このラーメンを食べるべき」になる。
急に重い。急に説教くさい。同じ "should" のはずなのに、日本語に着地した途端、別の生き物になっている。
翻訳の段階で、言葉の温度がバグっている。
もしかすると、日本語の「べき」がここまで市民権を得てしまった原因のひとつは、この翻訳のバグにあるのかもしれない。英語の軽い "should" のつもりで「べき」を使い始めた結果、本来の重さを忘れてしまった。shouldさん、日本に来てからだいぶ変わってしまった。
メディアのべきべきさん
テレビや新聞の世論調査を見ていると、よくこういう選択肢がある。
「〇〇すべき」「〇〇すべきではない」
ここにずっと違和感がある。個人の意見を聞いているのに、なぜ「べき」で答えさせるのか。「〇〇した方がいいと思う」でいいだろう。
文字数の制約があるのかもしれない。たしかに「すべき」と「した方がいいと思う」では、倍以上違う。見出しや選択肢では短い方が都合がいい、それはわかる。
でも、たかが数文字の効率のために、回答者の意見を「世間の正義」にすり替えていいのか。「べき」を使った瞬間、個人の意見が個人の意見じゃなくなる。本人はただ「そう思う」と答えたいだけなのに、鎧を着せられている。
じゃあ「べき」はどこで使うのか
個人の意見で使うのは不適切だとして、世間一般の常識や意見ならいいのか。
「飲酒運転はやめるべき」。
いや、それ法律で罰則あるから。「べき」以前の問題だ。やめるもなにも、やったら捕まる。「べき」の出番ではない。
こうやって考えていくと、「べき」の居場所がどこにもないことに気づく。個人の意見で使えば相手の自由を奪い、常識で使えば当たり前すぎて無意味、法律で使えばただの事実確認。
この言葉、どこに着地するつもりなのか。
「思う」は弱くない
「~した方がいいと思う」は、一見すると弱い表現に見えるかもしれない。自信がなさそうに聞こえるかもしれない。
でも違う。
「思う」をつけるということは、「これは私の意見です」と宣言することだ。自分の言葉に責任を持っている。反論の余地を相手に渡している。選択肢の提示であり、対話の入口を開いている。
一方「べき」は、主語を消す。誰がそう思っているのかをぼかして、まるで世の中の真理のように語る。自分の意見を言っているようで、「世間一般の正しさ」という鎧をまとっている。
どちらが誠実かは、明らかだと思う。
べきべきさん、素手で戦おう
あなたの言いたいことは伝わっている。おすすめしたいのも、良くしたいのも、わかっている。
でもその鎧、脱いで素手で戦った方が意見、伝わると思うよ。
まとめ
- 「べき」は相手の選択肢を奪う。「思う」は選択肢を渡す。
- 「べき」は、常識に使えば当たり前すぎて無意味、法律に使えばただの事実確認。どこにも居場所がない。
- それでもこの言葉がこんなに使われているのは、shouldの翻訳バグや、メディアの文字数都合で、本来の重さが忘れられてしまったからかもしれない。
- 「~した方がいいと思う」でいい。それだけで、自分の意見に責任を持てるし、相手に選択肢を渡せる。
- べきべきさんは、もう流行らない。時代は、思う思うさん。